この本から学ぶことが多かった。読んでよかった。「書く=考える」という同値関係が成り立っているということを強く意識させられた。「発想がテーマから氾濫し、やがて反乱する」という表現が印象に残っている。文章を書くとき、「こういうテーマで書くぞ」と最初に決めても、書いているうちに次から次へと本来書こうと思っいなかったことが頭の中に浮かんできて、最終的に、最初に設定したテーマからは大きく外れることもある。考え方によって、「それは脱線しただけの駄文」かもしれないが。でも、こういうことはあって当然。なぜならば、文章を書くとき、書く内容は前もって頭の中のどこかにあったわけではない。文章を書いているうちに、次第に「あ、おれこういうこと書きたかったんだ」という発見がある。それって当然のことでしょ?というのが著者のスタンスで、すごく共感できた。
共感できた理由は、このblogを自分が実際にやっていて、そういう感覚を共有できたから。あるニュースや本の読書感想と称してエントリーを書き始め、実際に文章を書いているうちに、「自分はこういう風に感じていたのか」といった、自分でも実際に文章書くまで分からなかった発想を発見する、ということがよくある。
「書くとは、考えることに他ならない。しかも、厳密に考える。」さらに、文章と人格は別、と著者は言う。私たちが書く文章は、本人が他者に対しこのように見せたいというフィルターにかけて選択した結果としての言葉、表現である、と。故意か無意識かは関係ない。だから、この文章を書いている僕の本来の人格と、実際に公開されているこの文章は別物なのだと思う。そんなことは考えたことがないが、無意識にきっとこのフィルタリングをやっている。
文章は、あくまでの表現であり、化粧や服装と同じ。会話の中で発する言葉は、相手の反応を見ながらこちらの発言を選り分けられるが、文章は、それが書かれた時点では一方的。したがって文章を書くという作業はとても孤独なもの。
義務教育で何回も書かされた作文は、「最初に文章の型・ストーリーありき」というもので窮屈だった。例えば、夏休みの作文といえば、カブトムシをパパと一緒にとって楽しかった、やっぱりパパって背が高くってすごいなぁ、・・・みたいな、「パパは偉大です」というストーリに帰着させておけば、大人は満足するらしいので、大人の顔色を伺ってそういう文章を無意識にうちに書かされて来た。
そういう窮屈さから開放されましょう、というのが著者のメッセージの一つだった。この著者はけっこう柔軟な人で、例えば日本語の乱れ、に対する上の世代に人たちの考え方にも反論している。言葉は、時代とともに移り変わっていく。若者言葉の乱れは、その移り変わりの最前線でしかない。この最前線には、未来の日本語が潜んでいる、と考えている。なんて柔軟なんでしょう。
我々は日常的に、どこかでインプットされたほかの誰かの言葉を、あたかも自分オリジナルの言葉であるかのようにして、他人に対して投げかけている。どこでインプットされたかというと、それは偉い有名な人が言った有名な言葉だったり、幼い頃に親や先生から吹き込まれてしまったもの。「最初に文章の型・ストーリーありき」の文章が良い文章である、と学校では吹き込まれたが、そんな窮屈な世界からは開放しよう、と著者は考えている。
では、どういう文章が良い文章か?というと、
よい文章とは、
①自分にしか書けないことを
②だれにもわかるように書く
ということを実現している文章。
と著者は定義している。納得。
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