計量経済学についての雑感

まさかの大学院進学で,経済学を修士課程までやってしまった.特に計量経済学はよく学んだ.計量経済学とは,統計的手法を用いて経済理論を評価する学問,と通常定義される.ただのデータいじりは「理論なき計測」であるとして嫌われる.この2年間計量経済学を学んだ結果,思うことがあるので,それについてメモを書こうと思う.

ビジネスの世界などで,よく「結論から考える,仮説思考」が重要と言われる.やみくもに突き進むのではなく,最初から「おとしどころ」を決めておいて,物事を進めるということである.突き進めて行くうちに情報が増え,最初は分からなかったことがだんだん分かるようになっていき,「おとしどころ」は若干修正される.とは言え,Aという「おとしどころ」を最初に決めておいたとしても,せいぜいA´に修正される程度であって,普通,いきなりZとかには修正されない.

つまり,「(柔軟に修正できる)結論ありき」で物事を進めていくことになる.では,最初にほとんど情報を持たない状態(これを「初期状態」と呼ぼう)で,どうやってこの「結論=おとしどころ」を決めるのか,というと,これはその人の過去の経験や根本的な価値観や勘といったところに依るのだと思う.これらの要素は「主観的判断」であり,通常,数値化しにくい.

さて,計量経済学に話を戻す.「計量経済学とは,統計的手法を用いて経済理論を評価する学問」という定義に従った場合,データを統計解析して「この経済理論はOK」とか「この経済理論はNG」とかいう結論を導きたいわけである.この検証作業で適用される統計的手続きはかなり高度に発達した科学的手法であって,一見,その結果導かれる結論は,かなり真理に近く思える.

...本当か?上記ビジネスの話と照らし合わせて考える.ビジネス上の意思決定だけに限らず,誰もがなんらかの「主観的判断」を下して意思決定を行っている.計量経済者もその例外ではない気がする.例えば,経済理論Aと経済理論BがあってAとBのどちらか正しいか,計量経済学で白黒つけたい,という状況を考えよう.仮にAという理論が支持されたと主張する論文があったとしよう.ところが経済学の世界だと,一方でBという理論が支持されたと主張する論文も存在していたりする.これはなぜか?計量経済学は高度に洗練された統計的手法のはずなのに,なんでこんなことが起こる?

計量経済学をある程度学ぶと,実はかなりいくらでも都合の良い結果を計量分析で導くことが出来る,ということがわかってくる.経済理論Aこそ正しい,という「主観的判断」を持っている計量経済学者がいたとしたら,その人は,意識的か無意識的か知らないが,とにかくこの「主観的判断」の影響を受けてしまう.その結果として,「経済理論Aこそ正しい」という論文を書いてしまう.書いてしまう,というか,書けてしまう.ここが計量経済学の問題.他方,経済理論Bこそ正しい,という「主観的判断」を持っている(ry

さて,ここまで書いたらジョークを一つ.

「計量経済学とは,自分が正しいと思う考え方をサポートするための道具」

ちょっと過激なジョークだけど,ある程度計量経済学をやった人なら,笑えるはず(笑えないw?).こういうジョークを思いつく時点で,現状の計量経済学には大きな問題があると僕は思う.真理の追求を掲げる現在の古典的計量経済学は,ぜんぜん真理に近づいていないんじゃないか,という危惧すら覚える.(でも,科学なんてみんなそんなもんかね...?)ベイジアンはその点,気楽だと思う.何せベイジアンは,「主観的判断を数値化して,事前分布として明確に計量経済分析に反映させます」という立場をとっているわけだから.

まだまだ計量経済学についての思うところはあるけど,今日はこの辺で.次は,「経済状態は不変」という計量経済学者の想定のおかしさについて触れよう(4月以降時間とれるかわからないけど).

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