『沈黙』の読書感想

どれだけ不条理なことがあったとしても、いつもと同じように朝になると太陽が昇り、いつもと同じように小鳥がさえずり、いつもとまったく変わらない日々が何食わぬ顔で進行してく。これだけ不条理なことがあるのに、なぜ神様は助けてくれないのか?なぜ神は沈黙を守っているのか?という意味がタイトルの「沈黙」という意味。「沈黙」を感じさせることは世の中にいっぱいある。こないだ自殺した中学生はきっとそれを痛感してたんだろう。

もちろん、努力していないのに天国から幸運が降ってくるなんてことはない。だけど、努力してれば天国から幸運が必ず降ってくるとは限らない。この本の主人公は、どこまでもまじめに努力している人だった。

宗教的な話をしなくても、単純な話で、人生にはいい時と悪いときがある。極めて悪いときに沈黙に対して苛立ちと不条理感を感じる。そういう思いをすることは人生に一回か二回くらいしかない。早めにそういう体験をしておくと後の人生が豊かになる、と思う。

『文章表現400字からのレッスン』の読書感想

この本から学ぶことが多かった。読んでよかった。「書く=考える」という同値関係が成り立っているということを強く意識させられた。「発想がテーマから氾濫し、やがて反乱する」という表現が印象に残っている。文章を書くとき、「こういうテーマで書くぞ」と最初に決めても、書いているうちに次から次へと本来書こうと思っいなかったことが頭の中に浮かんできて、最終的に、最初に設定したテーマからは大きく外れることもある。考え方によって、「それは脱線しただけの駄文」かもしれないが。でも、こういうことはあって当然。なぜならば、文章を書くとき、書く内容は前もって頭の中のどこかにあったわけではない。文章を書いているうちに、次第に「あ、おれこういうこと書きたかったんだ」という発見がある。それって当然のことでしょ?というのが著者のスタンスで、すごく共感できた。

共感できた理由は、このblogを自分が実際にやっていて、そういう感覚を共有できたから。あるニュースや本の読書感想と称してエントリーを書き始め、実際に文章を書いているうちに、「自分はこういう風に感じていたのか」といった、自分でも実際に文章書くまで分からなかった発想を発見する、ということがよくある。

「書くとは、考えることに他ならない。しかも、厳密に考える。」さらに、文章と人格は別、と著者は言う。私たちが書く文章は、本人が他者に対しこのように見せたいというフィルターにかけて選択した結果としての言葉、表現である、と。故意か無意識かは関係ない。だから、この文章を書いている僕の本来の人格と、実際に公開されているこの文章は別物なのだと思う。そんなことは考えたことがないが、無意識にきっとこのフィルタリングをやっている。

文章は、あくまでの表現であり、化粧や服装と同じ。会話の中で発する言葉は、相手の反応を見ながらこちらの発言を選り分けられるが、文章は、それが書かれた時点では一方的。したがって文章を書くという作業はとても孤独なもの。

義務教育で何回も書かされた作文は、「最初に文章の型・ストーリーありき」というもので窮屈だった。例えば、夏休みの作文といえば、カブトムシをパパと一緒にとって楽しかった、やっぱりパパって背が高くってすごいなぁ、・・・みたいな、「パパは偉大です」というストーリに帰着させておけば、大人は満足するらしいので、大人の顔色を伺ってそういう文章を無意識にうちに書かされて来た。

そういう窮屈さから開放されましょう、というのが著者のメッセージの一つだった。この著者はけっこう柔軟な人で、例えば日本語の乱れ、に対する上の世代に人たちの考え方にも反論している。言葉は、時代とともに移り変わっていく。若者言葉の乱れは、その移り変わりの最前線でしかない。この最前線には、未来の日本語が潜んでいる、と考えている。なんて柔軟なんでしょう。

我々は日常的に、どこかでインプットされたほかの誰かの言葉を、あたかも自分オリジナルの言葉であるかのようにして、他人に対して投げかけている。どこでインプットされたかというと、それは偉い有名な人が言った有名な言葉だったり、幼い頃に親や先生から吹き込まれてしまったもの。「最初に文章の型・ストーリーありき」の文章が良い文章である、と学校では吹き込まれたが、そんな窮屈な世界からは開放しよう、と著者は考えている。

では、どういう文章が良い文章か?というと、

よい文章とは、

①自分にしか書けないことを

②だれにもわかるように書く

ということを実現している文章。

と著者は定義している。納得。

“The Great Unravelling”の読書感想

英語が難しくって、読むのにちょうど一ヶ月くらいかかった。著者は超有名なポール・クルーグマン(Paul R. Krugman)教授。いちおう、Wikiで調べてみた。

ポール・クルーグマン(Paul R. Krugman)

ノーベル経済学賞が確実といわれている経済学者

と明記されている。

この本の主張は「ブッシュ政権はまじでクソ」の一言に尽きる。ブッシュ政権がやることなすこと全ての政策にダメ出しをし続けている。読んでみた感想は、まずクルーグマン教授は頭の回転が速く、頭がいい、ということ。そして、自分に自信を持っている。感情的に「ブッシュ嫌い」と言っているのではなく、自信を持って自分の高スペックな脳味噌を回転させて、明快な論理に基づいて建設的な批判をしている。この人と議論をしたら、絶対に負かされると思った。

いくつか面白かった点をメモ。

・マンデルを批判

p.395より引用。

It is the young Mundell, whose theories still dominate the textbooks, who earned the prize

1999年のノーベル経済学賞受賞者のマンデルにもダメ出ししてます。強烈です。

・イギリスのご飯がまずい理由をユニークに説明
p.391 “SUPPLY, DEMAND AND ENGLISH FOOD” で、なんでイギリスのご飯がまずいか、ということをおもしろおかしく書いている。

p.393より引用。

Well, the whole point of a market system is supposed to be that it serves consumers, providing us with what we want and thereby maximizing our collective welfare. But the history of English food suggests that even on so basic a matter as eating, a free-market economy can get trapped for an extended period in a bad equilibrium in which good things are not demanded because they have never been supplied, and are not supplied because not enough people demand them.

クルーグマンの理屈としては、こんな感じ。昔、イギリスではまずい飯を食わざるを得ない時代があった。その後、うまい飯が食える時代になっても、そのことを知らず、イギリスの人たちはうまい飯を自分たちが食えないと思い込んでいたため、うまい飯を欲しがりすらしなかった。需要がないのでうまい飯は供給されなかった。

つまり、需要がないから供給されず、供給されないから需要がない、という悪循環に入ってしまった、と。文脈としては、「市場がいつも万能とは限らない」ということを言うために出した例。

もともとTOEICを受ける前に英語に慣れとこうと思って読み始めたんだけど、読むのに一ヶ月もかかってしまった。もっともっと英語を磨こう。

『ロジカル・シンキング―論理的な思考と構成のスキル』の読書感想

これは大学3年のときに読んだ本。今日、なんとはなく手にとって、ぱらぱらめくった。この本の中に、

『メッセージ』の持つべき3つの構成要素とは、

①テーマ
②答え(=結論+根拠+方法)
③相手に期待する反応

ということが書かれている。特に、「③相手に期待する反応」を意識するかどうかで、自分の今後のコミュニケーションがかなり良くなるだろう、と直感的に感じたことを懐かしく思った。

特に、「自分にとって大事な人」or「親しくない人」とのコミュニケーションでこれを意識すると良い。「自分にとって大事な人」とは恋人とかのことを言っているわけではなくて、自分が何か仕事などを進行する上でのキーパーソン(その人がいないと自分自身が困るような人)、という意味であって、例えば先輩や上司や先生などのこと。

僕自身のコミュニケーション力がどれだけあるかは知らんが、こうやってblogでわざわざエントリーを書けば嫌でも『メッセージ』の持つべき3つの構成要素について、今後意識力が高まるような気がしたので、わざわざエントリーを書いてみた。

いくらGoogleがすごいと言っても、究極の情報技術というのは人間の脳味噌の能力を最大限開発・使用する技術だと思うので。そのために論理的に考える力を開発・使用する癖をつけなくては・・・。

『グーグル―Google 既存のビジネスを破壊する』の読書感想

この本を読んだので、Google関連はこの3冊が面白いよ、と人から聞いていた3冊全てを読んだことになる(1冊目2冊目)。

3冊読んでみて思ったのだが、どうもGoogleの登場によって世界が変わるようだ。パソコンの登場も世界を変えた。インターネットの普及も世界を変えた。でも、Googleの登場は、世界を劇的に変えてしまうようだ。そして、経済も変わるようだ。

なんというか、IT革命という言葉は、Googleのために本来はある言葉なんじゃなかろうか。紀元前の農業革命が人類の一つ目の革命であった。イギリスで18cに起こった産業革命が人類の二つ目の革命であった。そして第三の革命が、これからGoogleが起こす情報革命なんじゃないだろうか。

そんな状況の中、経済学を勉強している人間として感じたことを5点記そう。

1.Googleの登場で、経済学的な資源配分、所得分配はどのように変化するのだろうか?

中小起業、地方といったこれまでのロングテールが、大企業、都市といった胴体にラリアットを食らわす時代が来たようだが、そんな経済構造の劇的変化を分析する理論を理論経済学者は考えてください。その結果、経済学的な資源配分、所得分配はどのように変化するのだろうか?これはけっこう重要だと思うので、理論経済学者はたまには現実で起こっていることに目を向けて、世間の役にたってもらいたいと思います。

そもそもITの発達によって、格差が拡大するのか縮小するのか、ということすら、実証的にしか分からないことだと思う。『良い経済学 悪い経済学』の読書感想でもチラっと書いたけど。

2.経済学の「完全情報の仮定」は崩れるか?

経済学では、情報は遍在する(どこにでも存在する)という仮定をよくおく。完全情報の仮定、とか呼ぶ。でも、実際にはそんなことはもちろんない。Googleの登場によって、情報はさらに偏在する(偏って存在する)ようになるのではないか?検索エンジンさえあれば、いつでも欲しい情報を欲しいときに得られる、ということは、裏返せば、欲しいと思わない限りその情報は絶対に得られない、という世界を意味する。どうやって「欲しいかどうか」を人間が決めるかは、その人特有な(characteristic)要因である。つまり、情報はいつでもaccessibleという点では遍在する(どこにでも存在する)が、本当に全ての情報を全ての人間が得るかどうかという点では、情報は偏在する(偏って存在する)のではないか。

そもそも経済学における「完全情報の仮定」とはいったい何を指しているのだろう?Googleの登場は、この経済学の主要な仮定を、どのように崩すのだろう?これが根本的に崩れたら、この仮定を前提に演繹される理論的帰結は何の意味もなくなる。

3.制約付最適化問題化

この本で、価値判断の基準がいま劇的に変化している、とあった。これまではあるモノの値段というのは、例えばどれだけの生産要素を投入したか、とか、費用から逆算する、という発想があった。ところが今後は、「いかに人々のアテンション(注目)を得るか」に変わっていく、と。つまりは、Googleの検索結果の上位にいかに食い込むか、ということが、モノの価値を決める、とあった。

これ自体若干異論がある。というのは、Googleの検索結果の上位に表示されるためには、やっぱり生産要素をちゃんと投入しないといけない。例えば、時間や手間ヒマ、アイディア、つまりはウェブサイトならウェブサイトのコンテンツそのものを充実させないといけない。その結果として、Googleの検索結果の上位に表示される、という権利を得ているのではなかろうか。

とりあえず、このことはおいといて、先を書く。このアテンション(人々の注目)は有限である。ところが、情報は無限に増殖中である。無限の情報を有限なアテンションのもとで処理する方法として、最適なアテンションの配置問題の解、という問題を考えることが出来そうだな、と思った。

4. Googleが複数あったら、政治力に屈することはないんじゃないだろうか?

Googleがやろうとしている市場を「Google市場」と仮に呼ぶことにしよう。このとき、Google市場が完全競争市場だったら、「政治力に弱いテクノロジー企業」というGoogleの汚名を返上できるだろうか?国家機関が情報コントロールのため、「Googleさえ抑えればよい」と現状では考えているかもしれない。しかし、Googleが複数ある世界を考えてみよう。仮にそれをGoogleとKoogleとDoogleと呼ぶことにしよう。その場合、Googleが暴走したら、KoogleとDoogleがそれを監視できる、そういう相互監視システムが出来るんじゃないだろうか?そっちのほうが望ましい世界といえるのではないだろうか?

5. 理論経済学者が理論を作りっぱなしの時代は終わって、計量経済学者が理論を検証しまくる時代がくるんじゃないだろうか?

Googleが全ての情報をデジタルデータ化してくれれば、あとはいくらでも統計処理できる。Googleが大量にデータをとってきてデータベースを作ってくれれば、計量分析しほうだいになるんじゃないだろうか?
理論経済学者が、ようやく「検証に耐えうる理論を考えないといかんなぁ」と思う時代がくるんじゃないだろうか?

『ウルトラ・ダラー』の読書感想

折りしも、北朝鮮が核実験を行ったらしい、というニュースが駆け巡った今日。

この『ウルトラ・ダラー』の著者は、元NHKワシントン支局長の手嶋龍一さん。「これがフィクションだと言っているのは著者だけだ」なんてことが帯に書いてあった。

で、僕が読んでみた感想は、「真実だったとしても全然おかしくないような妄想が書かれているという点で、とても面白かった」である。

話の筋としては、北朝鮮は精巧な偽ドルを作るために、高度な印刷技術を持った日本人技術者を拉致。そして、本物と見分けがつかないほどの偽ドル札を作って、その資金で核兵器を購入した、という流れ。

で、その過程で敵側に情報が流れている点に気づき、日本政府内に裏切り者がいる、という話に持っていく。Amazonの商品説明に、

出版社 / 著者からの内容紹介

背信者は、霞が関に実在している!? 前NHKワシントン支局長の著者が、偽ドルと「知られざる拉致」の闇を描ききる。発売前から各紙誌騒然のスパイ巨編。

と書かれているが、本を読んでみて、むかしテレビによく出ていたあの人がモデルかな、と思った。

でもこの本の面白いところは、いちばん最後。ネタバレになるので詳しくは書かない。けど、この手の本なので、「はっきりしたことは分からない、解釈は読者に任せます」といった感じのエンディングになっているんだが、黒幕はもっと深い闇に包まれている、という感じ。

僕は、エンディングが示唆するconspiracy theoryを読んで、「結局日本外交の頭の痛いところってそこだよな」と思った。

北が核実験したなんてニュースを見て、外交とか国際関係論とかに無関心ではいられないよな、とか思った。ま、僕が考えてみたところで何も変わらないんだけどね。

『シリコンバレー精神 -グーグルを生むビジネス風土』の読書感想

梅田望夫さんという人物は、とても魅力的だ。面識はないが、文章を読むだけでそう思った。いくつか感想を箇条書き。

シリコンバレー精神
本書[pp.299]より引用。

限られた情報を限られた能力で、限られた時間内に拙いながらも何かを判断しつづけ、その判断に基づいてリスクをとって行動する。行動することで新しい情報が生まれる。行動する物同士でそれらの情報が連鎖し、未来が創造される。行動するものがいなければ生まれなかったはずの未来がである。未来志向の行動の連鎖を引き起こす核となる精神。それが「シリコンバレー精神」である

blogを書くという行為は、この精神と通じるものがある、と梅田さんは書いている。blogのアーカイブをみれば、自分がそのとき何を考えていたか、ということが分かる。後からみると見当違いのこともあるけど、それを修正するのではなく、ああ、そのときはそんなことを思っていたのか、ということが分かる。そして、そうやって過去の自分を振り返るための情報をblogアーカイブは提供している。ただし、そうなるためには、そのときの情報に基づいて、自分の判断をしないといけない。両論併記とか、こう書いたらウケがいいだろう、といか、そういう発想で文章を書いてはいけない。

Nerd
プログラミングおたく、とかいったニュアンスで本書で使われていた。別に、野球なら野球おたく、サッカーおたく、経済学おたく、とにかくなんでもいいからおたくとかマニアみたいな人たちのことの総称がNerdと一般的には使われていると思う。シリコンバレーでは、プログラミングNerdがたくさんいて、この人たちがシリコンバレーの超スピード成長を支えている、と書いてあった。おたくというと日本語ではマイナスのイメージしかないが、要するになんらかの対象に情熱を持って生きているすばらしい人間だと思う。情熱をもっていない人は生きた屍だと思うので、経済全体がどれくらい幸せか、という尺度は、GDPなんかを見るよりも、総人口に対するNerdの割合、とかで定義すればよいんじゃなかろうか。そしたら私は計量経済学Nerdに分類される。

返さなくてもいい借金
起業が日本より気楽にできて人材が流動的なシリコンバレーの特徴が強調されていた。うらやましい。日本の僕は、いま修士1年の秋で、この冬から来年春までのシュウカツの機会を逃すと、通常就職はもう出来ず、大学の先生になるか廃人になるかのどっちかしかなくなる。もっと気楽に、万が一、学問に飽きてちょっと違う空気がすいたいな、とか思ったら、気楽に別のことが出来るような世界があったら気が楽だな、と思った。そういうシステムがないから、博士課程の学生がけっこう精神的に追い詰められたりして、博士が100人いる村なんて怖い童話が語られたりする。グーグルを作った二人もスタンフォードの博士の院生二人だった。日本で、慶應や東大の博士課程の院生がグーグルみたいな化け物を生み出す可能性は、まぁゼロでしょう。それだけの土壌があれば、もっと気楽に博士にいけると思うんだけどなー。

『LTCM伝説―怪物ヘッジファンドの栄光と挫折』と『天才たちの誤算―ドキュメントLTCM破綻』の読書感想

両方を読んだ(読んだ順番に並べた)。

前者は、専門知識がないとつらい。専門知識とは、学術的な知識・金融実務的知識の両方。僕は学術的なことは分かったが、実務の知識がないので、実際どういう取引があったのかを説明するところを読むのに最後まで馴染めなかった。著者は修士号まで持っている。

後者は、小説。こっちは、予備知識がなくとも読める。ちょっと入り組んだ複雑な取引の説明も軽く紹介されてるし、時間をかければ理解できる。著者は、ジャーナリストらしいのでファイナンス理論に登場する数式の意味はあまり理解していないんじゃないだろうか、と思ったが、平易な言葉でうまく説明している。

二冊両方読むことで、両方の最小公約数が真実だったんだろう、というguessをすることが出来る。というわけで、金融の実務家や、ファイナンスに関心のある学生とかは両方読むと楽しめると思った。というか、僕は楽しめた。

さて、中身について少し書いておこう。LTCMに対する銀行の与信の態度は、1970年代からバブル崩壊まで、リスク管理という概念すら知らずに土地さえ担保にあればいくらでも貸し出す、という日本の銀行の貸し出し態度に似ていると思った。日本の銀行は土地さえあればOKと思ったが、LTCMの場合、圧倒的な学歴を持つスーパーマン集団に対する憧れ、これが担保代わりにようなものになってしまったようだ。

そして破綻した理由について。前者を読んでいたら「ロシア政府が国内銀行に対して、一ヶ月の為替取引停止を宣言した」とあった。これが原因で、ロシア債券市場で先物を買ってリスクヘッジしてたLTCMは、取引をおこなってリスクヘッジできなくなり、坂を転がり落ち始めた、というような記述があった。本ではあまり強調されていなかったが、これがきっかけになったと思った。そして本質的な原因は、僕が二冊を読んで得た理解によれば、「LTCMが流動性リスクを軽視したため」だと思う。

裁定機会は必ず収斂する方向の資産価格は調整されるから、裁定機会を発見し、収斂するまで持ちこたえるだけの十分の資金力と度胸と自信があれば、濡れ手に粟だ、というのが基本的な戦略だったようだ。そしてLTCMがすごいのは、「裁定機会を発見する」能力が極めて高かったことだ。この能力とは、現代ファイナンス理論をよく理解していること、と言い換えられるだろう。裁定機会はそんなに転がっていないから、簡単には見つからない。道端に1万円は落ちてない。落ちてたら、既に誰かが拾っているはず・・・でも、10円玉くらいなら落ちている。この10円玉を全部おれが拾ってやる!それがLTCMの態度だった。そして10円玉を見つけるのがブラック・ショールズ公式だった。そして10円玉を大量に吸い上げる掃除機がレバレッジだった。

しかし流動性リスクを無視した。つまり、いくら裁定機会をみつけて、そこで非合理な市場が合理性を取り戻すのを待ったとしても、市場がより非合理な方向に走ることもある、という可能性について無視した。このとき、LTCMに要求される資金力は増加する。もちこたえる資金力さえあれば、峠さえ超えれれば、大儲けだ。しかし資金が見つからない。投資家が逃げ出す。誰かが逃げ出すと、みんな後を追う。ただでさえレバレッジを25倍とかにしているのに、この数字がどんどん高まって、100倍くらいまでになった。ゲームオーバー。これがLTCM破綻の大筋だったようだ。

LTCMの中核メンバーは、このときそれぞれ個人資産数億ドル(数百億円)を吹っ飛ばしている。 しかし信じられないのは、1998年9月の破綻後も、25万ドルの年棒をもらい続けたことだ。日本円にして、約2500万円。なんか、おかしくない?

結局、彼らはポーカーゲームを楽しんだに過ぎないと思った。地球全体を巻き込んで。

『引き裂かれる世界』の読書感想文

たまには国際関係論とか外交とかの本を読んでみた。

うちらの経済学、金融工学、計量ファイナンスみたいな世界とは大分「研究する」という行為が、国際政治学みたいな分野とは異なるという印象を持った。うちらの世界では、理論構築と統計的検証の行ったり来たりで学問を発展させていく。国際政治学の世界では、統計的検証というよりは、「歴史的な経験から、これは真理だろう」みたいなことをそのまま理論にする。統計的に有意かどうかなんてことはあまり考えてないんじゃなかろうか。

しかし、統計的に数字を示してこれが真理なのである、といううちらの世界が偉いとか頭がいいとかは、一切思わない。考えてみると、例えば、世の中にはたくさんのことわざや格言がある。「急がば回れ」なんて格言を統計的に検証したことなんて誰もないだろうけど、ある程度の真理だと世の中のほとんどの人が受け入れている。大体、本当に統計的に検証してしまったら、「急がば回れ」という帰無仮説は棄却されてしまうでしょう(笑)。

別に統計的に数字をみて検定量とか推定量が1.96を超えたとかそんなこと考えなくても、歴史を見れば「ま、だいたいこんな法則が真理でしょ」というような態度をとっているようだ。

そういう、歴史を紐解いて「だいたいこんな法則が真理でしょ」みたいなところを探す作業が、国際政治学における研究という行為のようだ。これはこれで科学的な態度と呼べる気がする。

今まで実は、国際政治学みたいなものについて、「社会科学」という冠を与える資格はないと思っていた。科学とは、理論があって、それの現実的妥当性を検証する、この二つの要素があって初めて科学と呼べるのであって、検証する、という作業がなければ、それはただの理論を考え出した偉い学者さんの自己満足でしかない。

「検証する」という方法は、なにも統計的分析だけではないくても良いような気がしてきた。そうでなければ、「急がば回れ」が統計的に検証されていないにも関わらず、今日まで残っているはずがない。

ほかにも例えば、株式市場の格言の一つに、「卵は一つのカゴに盛るな」というものがある。これは、まさにマーコウィッツによって証明された(分散投資はアンシステマティック・リスクを除去してくれる)。

だから、必ずしも統計的有意性にこだわる必要はないのだろうが、実際に計量経済学者は、これにこだわっている(自分も含めて)。つまり、ディアドラおばさんの小言に耳を傾けるべし

ちなみに、本書は、

の続編みたいなもののようだ。こっちは、大学に入る前の春休みとかに読んだんだけど、中身はほとんど忘れてしまった・・・。

『ウォール街のランダム・ウォーカー―株式投資の不滅の真理』の読書感想文

バートン マルキール自身は、超有名な経済学者。有名な経済学者が書いたからというわけではなく、僕はこの本の内容にはほとんど賛成。マルキール教授の言っている事にはほとんど賛成。

マルキール教授の基本的な主張は「市場効率仮説は概ね正しいから、市場に勝ち続けることなんかできない」という単純なもの。これは金融実務家は猛反発するだろう。なぜなら、「きみたち証券アナリストやファンドマネージャーのやってることには何の価値もない」と言っているに等しいからだ。

こういう主張は学界のスタンダードな意見といえるだろう。学者と実務家の間の溝は別に今にはじまったことじゃない。

ただし、ポイントは、「市場効率仮説は概ね正しい」とマルキールがいう点。概ねということは、株で儲ける余地は多少は存在する、という点。「企業の将来の収益率の予想はきわめて困難で、だからこそ、株の将来予想も困難となり、株で儲けることはほとんど不可能」としながらも「それでも、十分頭の切れる人ならば、予想できるのかもしれなく、そういう人は株で儲けられる。こういう人が存在するかもしれない点で、市場効率仮説は100%正しくはない」ってさ。

でも、「そんなに頭の切れる証券アナリストは、私の知る限り存在しない」と言っているけど。