『ウルトラ・ダラー』の読書感想

折りしも、北朝鮮が核実験を行ったらしい、というニュースが駆け巡った今日。

この『ウルトラ・ダラー』の著者は、元NHKワシントン支局長の手嶋龍一さん。「これがフィクションだと言っているのは著者だけだ」なんてことが帯に書いてあった。

で、僕が読んでみた感想は、「真実だったとしても全然おかしくないような妄想が書かれているという点で、とても面白かった」である。

話の筋としては、北朝鮮は精巧な偽ドルを作るために、高度な印刷技術を持った日本人技術者を拉致。そして、本物と見分けがつかないほどの偽ドル札を作って、その資金で核兵器を購入した、という流れ。

で、その過程で敵側に情報が流れている点に気づき、日本政府内に裏切り者がいる、という話に持っていく。Amazonの商品説明に、

出版社 / 著者からの内容紹介

背信者は、霞が関に実在している!? 前NHKワシントン支局長の著者が、偽ドルと「知られざる拉致」の闇を描ききる。発売前から各紙誌騒然のスパイ巨編。

と書かれているが、本を読んでみて、むかしテレビによく出ていたあの人がモデルかな、と思った。

でもこの本の面白いところは、いちばん最後。ネタバレになるので詳しくは書かない。けど、この手の本なので、「はっきりしたことは分からない、解釈は読者に任せます」といった感じのエンディングになっているんだが、黒幕はもっと深い闇に包まれている、という感じ。

僕は、エンディングが示唆するconspiracy theoryを読んで、「結局日本外交の頭の痛いところってそこだよな」と思った。

北が核実験したなんてニュースを見て、外交とか国際関係論とかに無関心ではいられないよな、とか思った。ま、僕が考えてみたところで何も変わらないんだけどね。

『シリコンバレー精神 -グーグルを生むビジネス風土』の読書感想

梅田望夫さんという人物は、とても魅力的だ。面識はないが、文章を読むだけでそう思った。いくつか感想を箇条書き。

シリコンバレー精神
本書[pp.299]より引用。

限られた情報を限られた能力で、限られた時間内に拙いながらも何かを判断しつづけ、その判断に基づいてリスクをとって行動する。行動することで新しい情報が生まれる。行動する物同士でそれらの情報が連鎖し、未来が創造される。行動するものがいなければ生まれなかったはずの未来がである。未来志向の行動の連鎖を引き起こす核となる精神。それが「シリコンバレー精神」である

blogを書くという行為は、この精神と通じるものがある、と梅田さんは書いている。blogのアーカイブをみれば、自分がそのとき何を考えていたか、ということが分かる。後からみると見当違いのこともあるけど、それを修正するのではなく、ああ、そのときはそんなことを思っていたのか、ということが分かる。そして、そうやって過去の自分を振り返るための情報をblogアーカイブは提供している。ただし、そうなるためには、そのときの情報に基づいて、自分の判断をしないといけない。両論併記とか、こう書いたらウケがいいだろう、といか、そういう発想で文章を書いてはいけない。

Nerd
プログラミングおたく、とかいったニュアンスで本書で使われていた。別に、野球なら野球おたく、サッカーおたく、経済学おたく、とにかくなんでもいいからおたくとかマニアみたいな人たちのことの総称がNerdと一般的には使われていると思う。シリコンバレーでは、プログラミングNerdがたくさんいて、この人たちがシリコンバレーの超スピード成長を支えている、と書いてあった。おたくというと日本語ではマイナスのイメージしかないが、要するになんらかの対象に情熱を持って生きているすばらしい人間だと思う。情熱をもっていない人は生きた屍だと思うので、経済全体がどれくらい幸せか、という尺度は、GDPなんかを見るよりも、総人口に対するNerdの割合、とかで定義すればよいんじゃなかろうか。そしたら私は計量経済学Nerdに分類される。

返さなくてもいい借金
起業が日本より気楽にできて人材が流動的なシリコンバレーの特徴が強調されていた。うらやましい。日本の僕は、いま修士1年の秋で、この冬から来年春までのシュウカツの機会を逃すと、通常就職はもう出来ず、大学の先生になるか廃人になるかのどっちかしかなくなる。もっと気楽に、万が一、学問に飽きてちょっと違う空気がすいたいな、とか思ったら、気楽に別のことが出来るような世界があったら気が楽だな、と思った。そういうシステムがないから、博士課程の学生がけっこう精神的に追い詰められたりして、博士が100人いる村なんて怖い童話が語られたりする。グーグルを作った二人もスタンフォードの博士の院生二人だった。日本で、慶應や東大の博士課程の院生がグーグルみたいな化け物を生み出す可能性は、まぁゼロでしょう。それだけの土壌があれば、もっと気楽に博士にいけると思うんだけどなー。

『LTCM伝説―怪物ヘッジファンドの栄光と挫折』と『天才たちの誤算―ドキュメントLTCM破綻』の読書感想

両方を読んだ(読んだ順番に並べた)。

前者は、専門知識がないとつらい。専門知識とは、学術的な知識・金融実務的知識の両方。僕は学術的なことは分かったが、実務の知識がないので、実際どういう取引があったのかを説明するところを読むのに最後まで馴染めなかった。著者は修士号まで持っている。

後者は、小説。こっちは、予備知識がなくとも読める。ちょっと入り組んだ複雑な取引の説明も軽く紹介されてるし、時間をかければ理解できる。著者は、ジャーナリストらしいのでファイナンス理論に登場する数式の意味はあまり理解していないんじゃないだろうか、と思ったが、平易な言葉でうまく説明している。

二冊両方読むことで、両方の最小公約数が真実だったんだろう、というguessをすることが出来る。というわけで、金融の実務家や、ファイナンスに関心のある学生とかは両方読むと楽しめると思った。というか、僕は楽しめた。

さて、中身について少し書いておこう。LTCMに対する銀行の与信の態度は、1970年代からバブル崩壊まで、リスク管理という概念すら知らずに土地さえ担保にあればいくらでも貸し出す、という日本の銀行の貸し出し態度に似ていると思った。日本の銀行は土地さえあればOKと思ったが、LTCMの場合、圧倒的な学歴を持つスーパーマン集団に対する憧れ、これが担保代わりにようなものになってしまったようだ。

そして破綻した理由について。前者を読んでいたら「ロシア政府が国内銀行に対して、一ヶ月の為替取引停止を宣言した」とあった。これが原因で、ロシア債券市場で先物を買ってリスクヘッジしてたLTCMは、取引をおこなってリスクヘッジできなくなり、坂を転がり落ち始めた、というような記述があった。本ではあまり強調されていなかったが、これがきっかけになったと思った。そして本質的な原因は、僕が二冊を読んで得た理解によれば、「LTCMが流動性リスクを軽視したため」だと思う。

裁定機会は必ず収斂する方向の資産価格は調整されるから、裁定機会を発見し、収斂するまで持ちこたえるだけの十分の資金力と度胸と自信があれば、濡れ手に粟だ、というのが基本的な戦略だったようだ。そしてLTCMがすごいのは、「裁定機会を発見する」能力が極めて高かったことだ。この能力とは、現代ファイナンス理論をよく理解していること、と言い換えられるだろう。裁定機会はそんなに転がっていないから、簡単には見つからない。道端に1万円は落ちてない。落ちてたら、既に誰かが拾っているはず・・・でも、10円玉くらいなら落ちている。この10円玉を全部おれが拾ってやる!それがLTCMの態度だった。そして10円玉を見つけるのがブラック・ショールズ公式だった。そして10円玉を大量に吸い上げる掃除機がレバレッジだった。

しかし流動性リスクを無視した。つまり、いくら裁定機会をみつけて、そこで非合理な市場が合理性を取り戻すのを待ったとしても、市場がより非合理な方向に走ることもある、という可能性について無視した。このとき、LTCMに要求される資金力は増加する。もちこたえる資金力さえあれば、峠さえ超えれれば、大儲けだ。しかし資金が見つからない。投資家が逃げ出す。誰かが逃げ出すと、みんな後を追う。ただでさえレバレッジを25倍とかにしているのに、この数字がどんどん高まって、100倍くらいまでになった。ゲームオーバー。これがLTCM破綻の大筋だったようだ。

LTCMの中核メンバーは、このときそれぞれ個人資産数億ドル(数百億円)を吹っ飛ばしている。 しかし信じられないのは、1998年9月の破綻後も、25万ドルの年棒をもらい続けたことだ。日本円にして、約2500万円。なんか、おかしくない?

結局、彼らはポーカーゲームを楽しんだに過ぎないと思った。地球全体を巻き込んで。

『引き裂かれる世界』の読書感想文

たまには国際関係論とか外交とかの本を読んでみた。

うちらの経済学、金融工学、計量ファイナンスみたいな世界とは大分「研究する」という行為が、国際政治学みたいな分野とは異なるという印象を持った。うちらの世界では、理論構築と統計的検証の行ったり来たりで学問を発展させていく。国際政治学の世界では、統計的検証というよりは、「歴史的な経験から、これは真理だろう」みたいなことをそのまま理論にする。統計的に有意かどうかなんてことはあまり考えてないんじゃなかろうか。

しかし、統計的に数字を示してこれが真理なのである、といううちらの世界が偉いとか頭がいいとかは、一切思わない。考えてみると、例えば、世の中にはたくさんのことわざや格言がある。「急がば回れ」なんて格言を統計的に検証したことなんて誰もないだろうけど、ある程度の真理だと世の中のほとんどの人が受け入れている。大体、本当に統計的に検証してしまったら、「急がば回れ」という帰無仮説は棄却されてしまうでしょう(笑)。

別に統計的に数字をみて検定量とか推定量が1.96を超えたとかそんなこと考えなくても、歴史を見れば「ま、だいたいこんな法則が真理でしょ」というような態度をとっているようだ。

そういう、歴史を紐解いて「だいたいこんな法則が真理でしょ」みたいなところを探す作業が、国際政治学における研究という行為のようだ。これはこれで科学的な態度と呼べる気がする。

今まで実は、国際政治学みたいなものについて、「社会科学」という冠を与える資格はないと思っていた。科学とは、理論があって、それの現実的妥当性を検証する、この二つの要素があって初めて科学と呼べるのであって、検証する、という作業がなければ、それはただの理論を考え出した偉い学者さんの自己満足でしかない。

「検証する」という方法は、なにも統計的分析だけではないくても良いような気がしてきた。そうでなければ、「急がば回れ」が統計的に検証されていないにも関わらず、今日まで残っているはずがない。

ほかにも例えば、株式市場の格言の一つに、「卵は一つのカゴに盛るな」というものがある。これは、まさにマーコウィッツによって証明された(分散投資はアンシステマティック・リスクを除去してくれる)。

だから、必ずしも統計的有意性にこだわる必要はないのだろうが、実際に計量経済学者は、これにこだわっている(自分も含めて)。つまり、ディアドラおばさんの小言に耳を傾けるべし

ちなみに、本書は、

の続編みたいなもののようだ。こっちは、大学に入る前の春休みとかに読んだんだけど、中身はほとんど忘れてしまった・・・。

『ウォール街のランダム・ウォーカー―株式投資の不滅の真理』の読書感想文

バートン マルキール自身は、超有名な経済学者。有名な経済学者が書いたからというわけではなく、僕はこの本の内容にはほとんど賛成。マルキール教授の言っている事にはほとんど賛成。

マルキール教授の基本的な主張は「市場効率仮説は概ね正しいから、市場に勝ち続けることなんかできない」という単純なもの。これは金融実務家は猛反発するだろう。なぜなら、「きみたち証券アナリストやファンドマネージャーのやってることには何の価値もない」と言っているに等しいからだ。

こういう主張は学界のスタンダードな意見といえるだろう。学者と実務家の間の溝は別に今にはじまったことじゃない。

ただし、ポイントは、「市場効率仮説は概ね正しい」とマルキールがいう点。概ねということは、株で儲ける余地は多少は存在する、という点。「企業の将来の収益率の予想はきわめて困難で、だからこそ、株の将来予想も困難となり、株で儲けることはほとんど不可能」としながらも「それでも、十分頭の切れる人ならば、予想できるのかもしれなく、そういう人は株で儲けられる。こういう人が存在するかもしれない点で、市場効率仮説は100%正しくはない」ってさ。

でも、「そんなに頭の切れる証券アナリストは、私の知る限り存在しない」と言っているけど。

“The Search: How Google and Its Rivals Rewrote the Rules of Business and Transformed Our Culture”の読書感想文

図書館で和訳版が借りられてたので、しかたなく原著で読んだ。Amazonレビューでも和訳が悪い、とか書かれていたし。読むのに10日くらいかかった。もっと英語を磨かなければ。

『ウェブ進化論 本当の大変化はこれから始まる』でも紹介されていたので読んでみたわけだけど結論から言うと、この本は面白い。しかし1年前の本であり、この間、この本で主張されているようなことがウェブ上のいろいろなところで(おそらくこの本の影響もあって)書かれていたので、すごく新しいことが書かれている、という印象はうけなかった。逆に言えば、1年前の2005年の9月の段階でこの本を出版した著者はすごい。

いくつか気になる点をメモ。

1)まず、Chapter1の初っ端の言葉がすごい。

The library of Alexandria was the first time humanity attempted to bring the sum total of human knowledge together in one place at one time. Our latest attempt? Google.

この文章を読んで、Google創設者のPageとBrinの考えていることが、いかにイカれているかがよく伝わる。「そんなこと無理にきまってんだろ」という意味ではなく、「本当にやりかねない」という意味で、イカれていると感じた。Google創設者に関わらず、Google社員すべての情熱がテクノロジーによって具現化され、それが有史はじまって以来で最大の大改革を人類に引き起こそうとしている・・・と書くと仰々しいけど、要は、世界を変えたりするような大物の頭の中は、なんらかの情熱で燃え滾っている、というだけでしょう。こういう情熱を持ってる人間は幸せだと思うが、Googleは本当に情熱で燃え滾っている。甲子園の斉藤投手にとっての野球、PageとBrinにとってのGoogle、僕にとってのEconometrics。

2)Zeitgeistはこの本ではじめて知った。

3)ボルテールの言葉

Judge of a man by his quiestion, rather by his answers.

『ウェブ進化論』の読書感想

印象に残ったキーワードと一言だけ残す。

1.キーワード:「情報自体が自然淘汰される」
文脈:Google社内のメンバー5,000人での情報共有をどうやるの?という文脈で出てきた言葉。
意味:大事な情報はみんなによってreferされたり読まれたりするので、勝手に生き残る。他方、不要な情報はみんな読まないしreferしないから勝手に消えていく。
感想:これはつまりは、「生き残ったということは、大事な情報だった」という発想。ベイズ統計学の発想に他ならない。ひょっとして、検索エンジンではベイズの法則を適用しているのか?とか思った。

グーグル、インテル、MSが注目するベイズ理論

こんなところで隠れマルコフって言葉を見るとは思わなかった。

ベイジアンフィルタ、ベイズ理論 – Google、MSNの検索エンジン

でもよく考えると、「ある程度の情報探索能力があれば、大事な情報は勝手に自分の手元に転がり込んでくる」という表現に落とし込むと、別に新しいことでもなんでもない。今も昔もこの表現は真だろう。変わったのは、「情報探索手段」でしかない。昔だったら、井戸端会議で人伝い経路のみが情報を仕入れる手段だったかもしれないけど、それが今ではGoogle活用能力に変化しただけってことか。

そう考えるとすごい。無限にある井戸端会議に匹敵するだけの価値がGoogleにあるってことかな。

2.「高速道路の先は大渋滞」
文脈:将棋の羽生さんの言葉。
意味:将棋を強くなるための情報がネット上に転がっている。しかも大量の情報を整理する手段(Google)もある。したがって、「将棋を強くなるための情報が整理された形でネット上に転がってる」。つまり「将棋を強くなるための高速道路が整備されている」。しかし、この高速道路は無料でみんな乗れる。だから、「すごく短時間で、あっという間に高速道路を走り抜けてある程度まで強くなることはみんな出来る」が、「そこから先に進んでより強くなるところでみんなまごつく」から「そこで渋滞が発生している」ってこと。これは将棋以外でも分野でも起こる。
感想:学問の世界ではどうだろう?Google Scholarには”Stand on the shoulders of giants”と書かれている。”Stand on the shoulders of giants”とはすなわち「高速道理に乗る」ことである。あ、ってか梅田氏の本に影響されてるなぁ。「高速道理に乗る」とはすなわち”Stand on the shoulders of giants”というべきだった。だから、別にこの考え方自体は新しくはない。ただ、これからはありとあらゆる分野で高速道路が整備される、しかもその高速道路はよく整備されデコボコがないすっげー走りやすい道路、という点が重要。そしてその先の大渋滞から一人だけ抜け出すところが大事なステップ。大渋滞するところまでのステップが省略できていいんじゃない、と思う。本当は、学術研究とは「新しい知識の創造」なわけだから、つまり「大渋滞から抜け出すこと」なんだもんねぇ。これで盗作した人間は一発でばれる。ってゆうか盗作しようがない時代が来る。ドイツ語で発表された文献を、ただ日本語に翻訳して、あたかも自分が書いたかのように論文を発表した、という不道徳な学者の話を聞いたことがあるけど、そういうことが、高速道路が整備されると出来なくなる。

いままでは、「この研究分野は、こういう系譜になってます」みたいな研究分野の紹介とか、研究の流れの紹介のみを目的とする文献を書くことも、学者の仕事だった。これからは、そういう非効率な仕事をしなくてよくなる。

学者が、本来の仕事である、「新しい知識を創造する」という学術研究に専念できる時代が到来する予感がする。非常に喜ばしい。

3.「あちら側とこちら側、オープンソース」
文脈:MSのゲイツは、PCの私的保有に感動した世代。Googleのペイジとかは、あちら側の無限の可能性に感動した世代。両者は決定的に異なる。
意味:HDD内でごちゃごちゃやる世界が、「こちら側」。全部ネット上の仮想世界で大規模にやるのが「あちら側」。
感想:計量ソフトは、Rがその他すべての計量ソフトを駆逐する、と確信した。

『経済論戦は蘇る』の読書感想

2002年に出版された本。かなり話題になった経済本なので、いまさらながら、通学の電車での暇つぶしに読んでみた。

2002年の時点で、当時の経済論戦を二項対立に整理できたのはすごい。そして自分の立場はなんなのかもはっきりさせている。自分の意見をはっきり主張するし、自分がおかしいと思う意見を主張する人のことはきっちり批判する。それは、自分の主張に自信がある証拠だと思う。それから文章力もある。読みやすい。人に訴えかけるのが上手。

『統計学とは何か―偶然を生かす』の読書感想文

”クラーメオ・ラオの下限”とかでとてもとても有名なラオ先生の講演内容をまとめたものの日本語訳。

最初のほうをパラパラめくったらけっこうおもしろそうだったので読み始めたんだけど、思ったほどおもしろくなかった。というか、『統計学とは何か―偶然を生かす』というタイトルに過度に期待をしていたけど、そこまでおもしろくはなかった、ということ。

なんでそう思ったかと分析してみると、最近、この手の話はいろんなところで目にする機会が多かったから、機知のことが多かったからかもしれない。さいきん、「リスクマネジメント」とか「不確実性を数量化する」みたいな話、はやってんじゃん。あ、あと、この本の想定している読者層がいまいちよくわからんな。統計学に関する完全な素人を想定しているような書き方をしている箇所がいっぱいあるんだけど、そのわりにけっこう専門的な統計用語を詳しい説明なしに書いてあったり統計学で出てくる数式とかがたまに出てきたりしてた。

話の概要としては、「統計学ってすごくすごく最近になって急速に発展した研究領域で、すごくすごく大事な領域なんだよ」ということだった。具体的にどのように大事かというと、大雑把にいうと「統計学の知識がないと政府の発表とかメディアの垂れ流す数字にだまされちゃうよ」って感じかな。

ちなみに、統計学のプロですら、得られたデータを統計分析した結果の解釈を誤ることが往々にしてありうるわけなので、統計学を少し勉強したからって、真実にそれだけですごく近づけるとは思えない。

この本では話の節々に、ラオ教授の博識ぶりが伺える。ラオ教授の教養レベルすごく高いという印象を受けた。

最後に、幾つか印象に残ったことをメモ。

■統計学とは何か?
統計学とは、芸術であり、科学であり、技術である。

■ゲーデルの不完全性定理
『自然数の理論を形式化して得られる形式的体系においては、その体系が無矛盾である限り、かならずAおよびその否定Aバーがともに証明不可能な論理式Aが存在する』
なんだかわけがわからんが、昔何かの本で読んだんだけど、このゲーデルの不完全定理って要するに「数学という論理的体系そのものが正しいかどうかは、数学的に証明を与えることは出来ない」とかいうことじゃなかったかしら。こう書くと当たり前のようだな。自己矛盾のパラドックスってことでしょ。「すべてのプログラムが正常に機能しているかどうかをチェックするプログラムを書くことはできない」(自分自身が正常に機能しているかどうかをチェックすることができない)というパラドックスとか、「すべてのクレタ島人はうそつきである」というstatementが成立しないのと同じ。
それから、ゲーデルって、神の不存在証明もしたひとじゃなかったっけかしら。これもむかし何かで読んだことがある。

■統計学を慎重に使わないといけない
ある仮説が正しいかどうかを、データを使って統計理論に基づいて検証するとき、どんな仮説も、その仮説を支持するようなデータを都合よく選んでやることで、その仮説を統計的に裏付けることが出来る。だから、サンプル期間の選択基準とかは、客観的に、フェアでないといけない。

■天気予報ってなに?
東京の明日の降水確率は60%です・・・とか天気予報で見る、60%ってなに?小学校のときの某先生が、「東京で雨がふる地域の面積の割合」とか答えてた。また、ぜんぜん別の先生は「100人の天気予報士がいて、60人が雨がふるって予想したったこと」と言っていた。うそでしょ、これどっちも。答えは「過去のデータにおいて、前日の大気の状態が今日観察されたようなものであった場合、そのその翌日に雨が降った割合」です。

■乱数の質
そもそも乱数とは、定義が難しい。とりあえず、「数列が、どのような特別のパターンにもしたがわない」というような、漠然としたイメージで満足するとする。
では、このような理想的な乱数をどのように入手するか?箱の中に黒と白のビーズを同数いれ、ランダムに取り出す、といようなことをやってみよう。これによって得られる乱数は人工的乱数である。一方、男女の出生比率をつかって得られる乱数は自然乱数である。統計的検定を行ってみると、後者のほうが、前者よりも、より理論にあてはまるものとなっていることが示される。何が言えたかといと、「おそらく神はより完全なコインを投げている」ということである。

■神はさいころを振る
宗教が人間を支配していた時代、厳格な因果応報が信じられていた。その時代には、偶然という概念はなく、すべてが必然だった(だって、すべてが運命、神によって定められている、と信じられていた)。アインシュタインは、「宇宙を相手には、神はさいころあそびをしない」と考えた。物事は厳密で決定論的な因果関係にあるという考え方が、以上の考え方。しかし、物事は実は確率的であり、決定論的ではない。確率的だからこそ、将来への不確実性が生まれ、それが人を困惑させる。宗教の支配から人が自由になって科学的思考がやっと出来るようになったことで、ひとは将来の不確実性を数量化し、これをコントロールするようになった。この流れは、今日、リスク管理とか、リスクコントロールとか言われている時代へ通じるものがあるね。リスクマネジメントとかいう概念がこれほど大衆に行き届くまでに、長い歴史を必要とした。ここらへんの話は、この本にけっこう詳しく書かれている。

(神様が全部決めてるんじゃなくって)物事は確率的に決まる、という考え方を許容することで、確率論や統計学が発展してきた。そして、統計的手法を用いてさまざまな分野で応用された(薬がどれくらい効くのか、という統計的な判断をする、とか、本当にいろいろな分野で統計学は使われている)。経済学の場合、計量経済学という形で統計学が応用された。計量経済学において、真のモデルには撹乱項という確率的な項が仮定されているが、これは、神様がさいころを振っているのだ、という暗黙の前提にのっとっている(そんなこと誰もおしえてくれないけど)。

宗教が強かったころは、「神様がさいころを振っている」と仮定し「物事は確率的に決まる」と考える近代の統計学をつかった科学的手法は絶対に生じ得なかったね、と。

ところで、アインシュタインは神はさいころをふらないと考えていたらしいが、この真偽はどうなだろう?純粋に知りたい。

(追記)
■仮説の検証についての注意点
ある仮説を支持する証拠を挙げたということは、仮説の反証に失敗しただけである。

『確率と統計のパラドックス―生と死のサイコロ』

アマゾンで酷評されていますが・・・。

著者は統計の解説より自己満足を目的として書いたと思える節がある。

という評価については、激しく同意です。

内容は、はっきりいって難しい。難しいというか、「著者の自分専用の覚書」的な性格がとても強いから、ほかの人が読んでも理解しにくい。確率論や統計学の知識がそれなりにある僕ですら、こう思うわけだから、普通の人が読めるものではない。

ただ、いくつか面白い記述があったのでそれだけメモしておく。

ウィル・ロジャーズ現象とシンプソンの逆説pp.34~
名前の由来は、アメリカのコメディアンのウィル・ロジャーズが言った「大恐慌のとき、オクラホマ州の住民がカリフォルニアに移動して、平均知能はどちらの州も上がった」というジョークのようである。全体でも見るともちろん、平均知能は上がっていないが、二つの州を別々に見ると平均知能が上がっている。

これが統計学用語に置き換えると「サンプル全体では変化していないが、サブサンプルに分割してみると、全てのサブサンプルで同じ変化がおきている」ということが起こりうる、という点が面白い。