『帝王学―「貞観政要」の読み方』の読書感想

これはいろいろと耳が痛い。

『貞観政要』なんて初めて聞いたけど、wikipediaから引用すると、

貞観政要(じょうがんせいよう)は唐の史官である呉兢が編成したとされる太宗の言行録である。

らしい。唐の初代、高祖李淵が唐という事業を起こした。で、二代目の太宗がそれを維持する基盤を磐石にした。(ちなみに、有名な則天武后は、太宗の息子の三代目、高宗の妻。)

通常、初代のやる創業が一番大変で、それを維持する二代目以降のほうが簡単だと僕は思っていたのだけど、『貞観政要』では逆に考えている。

草創(創業)と守文(守成=維持)といずれが難き

という有面な言葉は、実は『貞観政要』から来ているのらしいのだけど、『貞観政要』における答えは後者。すなわち、守文(維持)。そしてそれを見事にやった唐の二代目太宗の言行録ということで、帝王の必読書として天皇、北条氏、足利氏、徳川氏などによって読まれたらしい(p15)。

政子や家康が、『貞観政要』を一心に読んだのも、その前に、「創業」に成功して「守文」に失敗したものがいたからであろう。武家政治の創業はむしろ平清盛であろうし、全国統一の創業は信長、完成者は秀吉であろう。ではなぜ彼らに維持・守成ができなかったのか、どいすたらその轍を踏まないですむか。この問題意識があったからであろう。(p18)

というわけで、太宗の言行録から「これは」と思われるところを山本七平がピックアップしているのだけれど、とっても耳が痛いですね。というわけで、気になった点をメモ。

太宗の美点は、自己の欠点をよく知り、諫臣の言葉をよく入れて、改めるべきことは速やかに改め、その直言を少しも怒らず、感情を害することもなく、逆に直言してくれた者に必ず「特別ボーナス」を出した、という点に、太宗の特質がある。(p31)

「貞観二年、太宗、魏徴に問いて曰く、何をか謂いて明君・暗君となす、と」か。確か世の中に明君・暗君がおり、現在も明リーダーと暗リーダーがいる。その差はどこから出てくるのか。魏徴は答えていった。「君の明らかなる所以の者は堅聴すればなり。その暗き所以の者は偏信すればなり」と。堅聴は多くの人の率直な意見に耳を傾け、その中から、これはと思う意見を採用すること、偏信は一人のいうことだけを信用すること。いわば諸事情、それに基づく諸判断を耳にするか、一方向だけの情報と、それと共に提供される判断だけを信じるか、その違いだけであるという。(p55)

『孟子』に有名な「敵国外患なき者は、国恒に亡ぶ」という言葉がある。一見矛盾するようだが、これを「競争なき独占は恒に滅ぶ」と読むと面白い。(p66)

「和」ですべてが表面的には丸くおさまっていれば、太宗にも何もわからなくなる。隋はそのようにして一歩一歩と破滅へ進んでいった。そして最終的には、小さな摩擦を避けて、これが安全と思っている者が、ひどい目にあった。(p69)

権力者はしばしば奇妙な「全能感」にとらわれるものである。この点でも権力とはまことに魔物だということになるが、社長や大学教授の中にも、奇妙な全能感をもっている人は決して少なくない。信長が自分を神に擬する一種の全能感をもっていたことはよく知られているが、秀吉も晩年は、自分が命ずれば何でも実現できるかのような、一種の全能感をもっていた。(中略)この全能感をもたなかった権力者といえば頼朝と初期の北条氏、そして徳川家康だろう。ともに、『貞観政要』から強い影響を受けたと思われる人びとである。(p87)

簡単にいえばリーダーたるものは、「感謝しろ」といった意識はけっして持ってはならない、ということであろう。(p91)

太宗は、官吏は少ないほどよいと考えて「定員法」を制定し、さらに、才能がある者にはその少ない官をさらに兼任させ、また、どうしても才能ある者が見つか
らない場合には「欠員」にしておいた方がむしろ害が少ないと考えていた。(p102)

頼朝は奢侈は滅亡のもとと思っていた。(p119)

日本には(中略)「三代目で駄目になる」といった俗諺が数々あり、これが一種「常識」のようになっているが、その源流は案外、『貞観政要』だったのかもしれない。このことは、いいかえれば、世襲制度は基本的に無理があるということである。(p179)

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