『ロジカル・シンキング―論理的な思考と構成のスキル』の読書感想

これは大学3年のときに読んだ本。今日、なんとはなく手にとって、ぱらぱらめくった。この本の中に、

『メッセージ』の持つべき3つの構成要素とは、

①テーマ
②答え(=結論+根拠+方法)
③相手に期待する反応

ということが書かれている。特に、「③相手に期待する反応」を意識するかどうかで、自分の今後のコミュニケーションがかなり良くなるだろう、と直感的に感じたことを懐かしく思った。

特に、「自分にとって大事な人」or「親しくない人」とのコミュニケーションでこれを意識すると良い。「自分にとって大事な人」とは恋人とかのことを言っているわけではなくて、自分が何か仕事などを進行する上でのキーパーソン(その人がいないと自分自身が困るような人)、という意味であって、例えば先輩や上司や先生などのこと。

僕自身のコミュニケーション力がどれだけあるかは知らんが、こうやってblogでわざわざエントリーを書けば嫌でも『メッセージ』の持つべき3つの構成要素について、今後意識力が高まるような気がしたので、わざわざエントリーを書いてみた。

いくらGoogleがすごいと言っても、究極の情報技術というのは人間の脳味噌の能力を最大限開発・使用する技術だと思うので。そのために論理的に考える力を開発・使用する癖をつけなくては・・・。

『グーグル―Google 既存のビジネスを破壊する』の読書感想

この本を読んだので、Google関連はこの3冊が面白いよ、と人から聞いていた3冊全てを読んだことになる(1冊目2冊目)。

3冊読んでみて思ったのだが、どうもGoogleの登場によって世界が変わるようだ。パソコンの登場も世界を変えた。インターネットの普及も世界を変えた。でも、Googleの登場は、世界を劇的に変えてしまうようだ。そして、経済も変わるようだ。

なんというか、IT革命という言葉は、Googleのために本来はある言葉なんじゃなかろうか。紀元前の農業革命が人類の一つ目の革命であった。イギリスで18cに起こった産業革命が人類の二つ目の革命であった。そして第三の革命が、これからGoogleが起こす情報革命なんじゃないだろうか。

そんな状況の中、経済学を勉強している人間として感じたことを5点記そう。

1.Googleの登場で、経済学的な資源配分、所得分配はどのように変化するのだろうか?

中小起業、地方といったこれまでのロングテールが、大企業、都市といった胴体にラリアットを食らわす時代が来たようだが、そんな経済構造の劇的変化を分析する理論を理論経済学者は考えてください。その結果、経済学的な資源配分、所得分配はどのように変化するのだろうか?これはけっこう重要だと思うので、理論経済学者はたまには現実で起こっていることに目を向けて、世間の役にたってもらいたいと思います。

そもそもITの発達によって、格差が拡大するのか縮小するのか、ということすら、実証的にしか分からないことだと思う。『良い経済学 悪い経済学』の読書感想でもチラっと書いたけど。

2.経済学の「完全情報の仮定」は崩れるか?

経済学では、情報は遍在する(どこにでも存在する)という仮定をよくおく。完全情報の仮定、とか呼ぶ。でも、実際にはそんなことはもちろんない。Googleの登場によって、情報はさらに偏在する(偏って存在する)ようになるのではないか?検索エンジンさえあれば、いつでも欲しい情報を欲しいときに得られる、ということは、裏返せば、欲しいと思わない限りその情報は絶対に得られない、という世界を意味する。どうやって「欲しいかどうか」を人間が決めるかは、その人特有な(characteristic)要因である。つまり、情報はいつでもaccessibleという点では遍在する(どこにでも存在する)が、本当に全ての情報を全ての人間が得るかどうかという点では、情報は偏在する(偏って存在する)のではないか。

そもそも経済学における「完全情報の仮定」とはいったい何を指しているのだろう?Googleの登場は、この経済学の主要な仮定を、どのように崩すのだろう?これが根本的に崩れたら、この仮定を前提に演繹される理論的帰結は何の意味もなくなる。

3.制約付最適化問題化

この本で、価値判断の基準がいま劇的に変化している、とあった。これまではあるモノの値段というのは、例えばどれだけの生産要素を投入したか、とか、費用から逆算する、という発想があった。ところが今後は、「いかに人々のアテンション(注目)を得るか」に変わっていく、と。つまりは、Googleの検索結果の上位にいかに食い込むか、ということが、モノの価値を決める、とあった。

これ自体若干異論がある。というのは、Googleの検索結果の上位に表示されるためには、やっぱり生産要素をちゃんと投入しないといけない。例えば、時間や手間ヒマ、アイディア、つまりはウェブサイトならウェブサイトのコンテンツそのものを充実させないといけない。その結果として、Googleの検索結果の上位に表示される、という権利を得ているのではなかろうか。

とりあえず、このことはおいといて、先を書く。このアテンション(人々の注目)は有限である。ところが、情報は無限に増殖中である。無限の情報を有限なアテンションのもとで処理する方法として、最適なアテンションの配置問題の解、という問題を考えることが出来そうだな、と思った。

4. Googleが複数あったら、政治力に屈することはないんじゃないだろうか?

Googleがやろうとしている市場を「Google市場」と仮に呼ぶことにしよう。このとき、Google市場が完全競争市場だったら、「政治力に弱いテクノロジー企業」というGoogleの汚名を返上できるだろうか?国家機関が情報コントロールのため、「Googleさえ抑えればよい」と現状では考えているかもしれない。しかし、Googleが複数ある世界を考えてみよう。仮にそれをGoogleとKoogleとDoogleと呼ぶことにしよう。その場合、Googleが暴走したら、KoogleとDoogleがそれを監視できる、そういう相互監視システムが出来るんじゃないだろうか?そっちのほうが望ましい世界といえるのではないだろうか?

5. 理論経済学者が理論を作りっぱなしの時代は終わって、計量経済学者が理論を検証しまくる時代がくるんじゃないだろうか?

Googleが全ての情報をデジタルデータ化してくれれば、あとはいくらでも統計処理できる。Googleが大量にデータをとってきてデータベースを作ってくれれば、計量分析しほうだいになるんじゃないだろうか?
理論経済学者が、ようやく「検証に耐えうる理論を考えないといかんなぁ」と思う時代がくるんじゃないだろうか?

『ウルトラ・ダラー』の読書感想

折りしも、北朝鮮が核実験を行ったらしい、というニュースが駆け巡った今日。

この『ウルトラ・ダラー』の著者は、元NHKワシントン支局長の手嶋龍一さん。「これがフィクションだと言っているのは著者だけだ」なんてことが帯に書いてあった。

で、僕が読んでみた感想は、「真実だったとしても全然おかしくないような妄想が書かれているという点で、とても面白かった」である。

話の筋としては、北朝鮮は精巧な偽ドルを作るために、高度な印刷技術を持った日本人技術者を拉致。そして、本物と見分けがつかないほどの偽ドル札を作って、その資金で核兵器を購入した、という流れ。

で、その過程で敵側に情報が流れている点に気づき、日本政府内に裏切り者がいる、という話に持っていく。Amazonの商品説明に、

出版社 / 著者からの内容紹介

背信者は、霞が関に実在している!? 前NHKワシントン支局長の著者が、偽ドルと「知られざる拉致」の闇を描ききる。発売前から各紙誌騒然のスパイ巨編。

と書かれているが、本を読んでみて、むかしテレビによく出ていたあの人がモデルかな、と思った。

でもこの本の面白いところは、いちばん最後。ネタバレになるので詳しくは書かない。けど、この手の本なので、「はっきりしたことは分からない、解釈は読者に任せます」といった感じのエンディングになっているんだが、黒幕はもっと深い闇に包まれている、という感じ。

僕は、エンディングが示唆するconspiracy theoryを読んで、「結局日本外交の頭の痛いところってそこだよな」と思った。

北が核実験したなんてニュースを見て、外交とか国際関係論とかに無関心ではいられないよな、とか思った。ま、僕が考えてみたところで何も変わらないんだけどね。

『シリコンバレー精神 -グーグルを生むビジネス風土』の読書感想

梅田望夫さんという人物は、とても魅力的だ。面識はないが、文章を読むだけでそう思った。いくつか感想を箇条書き。

シリコンバレー精神
本書[pp.299]より引用。

限られた情報を限られた能力で、限られた時間内に拙いながらも何かを判断しつづけ、その判断に基づいてリスクをとって行動する。行動することで新しい情報が生まれる。行動する物同士でそれらの情報が連鎖し、未来が創造される。行動するものがいなければ生まれなかったはずの未来がである。未来志向の行動の連鎖を引き起こす核となる精神。それが「シリコンバレー精神」である

blogを書くという行為は、この精神と通じるものがある、と梅田さんは書いている。blogのアーカイブをみれば、自分がそのとき何を考えていたか、ということが分かる。後からみると見当違いのこともあるけど、それを修正するのではなく、ああ、そのときはそんなことを思っていたのか、ということが分かる。そして、そうやって過去の自分を振り返るための情報をblogアーカイブは提供している。ただし、そうなるためには、そのときの情報に基づいて、自分の判断をしないといけない。両論併記とか、こう書いたらウケがいいだろう、といか、そういう発想で文章を書いてはいけない。

Nerd
プログラミングおたく、とかいったニュアンスで本書で使われていた。別に、野球なら野球おたく、サッカーおたく、経済学おたく、とにかくなんでもいいからおたくとかマニアみたいな人たちのことの総称がNerdと一般的には使われていると思う。シリコンバレーでは、プログラミングNerdがたくさんいて、この人たちがシリコンバレーの超スピード成長を支えている、と書いてあった。おたくというと日本語ではマイナスのイメージしかないが、要するになんらかの対象に情熱を持って生きているすばらしい人間だと思う。情熱をもっていない人は生きた屍だと思うので、経済全体がどれくらい幸せか、という尺度は、GDPなんかを見るよりも、総人口に対するNerdの割合、とかで定義すればよいんじゃなかろうか。そしたら私は計量経済学Nerdに分類される。

返さなくてもいい借金
起業が日本より気楽にできて人材が流動的なシリコンバレーの特徴が強調されていた。うらやましい。日本の僕は、いま修士1年の秋で、この冬から来年春までのシュウカツの機会を逃すと、通常就職はもう出来ず、大学の先生になるか廃人になるかのどっちかしかなくなる。もっと気楽に、万が一、学問に飽きてちょっと違う空気がすいたいな、とか思ったら、気楽に別のことが出来るような世界があったら気が楽だな、と思った。そういうシステムがないから、博士課程の学生がけっこう精神的に追い詰められたりして、博士が100人いる村なんて怖い童話が語られたりする。グーグルを作った二人もスタンフォードの博士の院生二人だった。日本で、慶應や東大の博士課程の院生がグーグルみたいな化け物を生み出す可能性は、まぁゼロでしょう。それだけの土壌があれば、もっと気楽に博士にいけると思うんだけどなー。

『LTCM伝説―怪物ヘッジファンドの栄光と挫折』と『天才たちの誤算―ドキュメントLTCM破綻』の読書感想

両方を読んだ(読んだ順番に並べた)。

前者は、専門知識がないとつらい。専門知識とは、学術的な知識・金融実務的知識の両方。僕は学術的なことは分かったが、実務の知識がないので、実際どういう取引があったのかを説明するところを読むのに最後まで馴染めなかった。著者は修士号まで持っている。

後者は、小説。こっちは、予備知識がなくとも読める。ちょっと入り組んだ複雑な取引の説明も軽く紹介されてるし、時間をかければ理解できる。著者は、ジャーナリストらしいのでファイナンス理論に登場する数式の意味はあまり理解していないんじゃないだろうか、と思ったが、平易な言葉でうまく説明している。

二冊両方読むことで、両方の最小公約数が真実だったんだろう、というguessをすることが出来る。というわけで、金融の実務家や、ファイナンスに関心のある学生とかは両方読むと楽しめると思った。というか、僕は楽しめた。

さて、中身について少し書いておこう。LTCMに対する銀行の与信の態度は、1970年代からバブル崩壊まで、リスク管理という概念すら知らずに土地さえ担保にあればいくらでも貸し出す、という日本の銀行の貸し出し態度に似ていると思った。日本の銀行は土地さえあればOKと思ったが、LTCMの場合、圧倒的な学歴を持つスーパーマン集団に対する憧れ、これが担保代わりにようなものになってしまったようだ。

そして破綻した理由について。前者を読んでいたら「ロシア政府が国内銀行に対して、一ヶ月の為替取引停止を宣言した」とあった。これが原因で、ロシア債券市場で先物を買ってリスクヘッジしてたLTCMは、取引をおこなってリスクヘッジできなくなり、坂を転がり落ち始めた、というような記述があった。本ではあまり強調されていなかったが、これがきっかけになったと思った。そして本質的な原因は、僕が二冊を読んで得た理解によれば、「LTCMが流動性リスクを軽視したため」だと思う。

裁定機会は必ず収斂する方向の資産価格は調整されるから、裁定機会を発見し、収斂するまで持ちこたえるだけの十分の資金力と度胸と自信があれば、濡れ手に粟だ、というのが基本的な戦略だったようだ。そしてLTCMがすごいのは、「裁定機会を発見する」能力が極めて高かったことだ。この能力とは、現代ファイナンス理論をよく理解していること、と言い換えられるだろう。裁定機会はそんなに転がっていないから、簡単には見つからない。道端に1万円は落ちてない。落ちてたら、既に誰かが拾っているはず・・・でも、10円玉くらいなら落ちている。この10円玉を全部おれが拾ってやる!それがLTCMの態度だった。そして10円玉を見つけるのがブラック・ショールズ公式だった。そして10円玉を大量に吸い上げる掃除機がレバレッジだった。

しかし流動性リスクを無視した。つまり、いくら裁定機会をみつけて、そこで非合理な市場が合理性を取り戻すのを待ったとしても、市場がより非合理な方向に走ることもある、という可能性について無視した。このとき、LTCMに要求される資金力は増加する。もちこたえる資金力さえあれば、峠さえ超えれれば、大儲けだ。しかし資金が見つからない。投資家が逃げ出す。誰かが逃げ出すと、みんな後を追う。ただでさえレバレッジを25倍とかにしているのに、この数字がどんどん高まって、100倍くらいまでになった。ゲームオーバー。これがLTCM破綻の大筋だったようだ。

LTCMの中核メンバーは、このときそれぞれ個人資産数億ドル(数百億円)を吹っ飛ばしている。 しかし信じられないのは、1998年9月の破綻後も、25万ドルの年棒をもらい続けたことだ。日本円にして、約2500万円。なんか、おかしくない?

結局、彼らはポーカーゲームを楽しんだに過ぎないと思った。地球全体を巻き込んで。